はじめに
8巻を読み終えてから、登場人物のそれぞれが気になって、最終巻まで駆け抜けてしまいました。感じたことを綴りたいと思います。
朝の年齢設定
まず、姉の遺児「朝」の中学3年〜高校3年までの物語なんだろうな、と読んでいる途中で気がつきました。15歳〜18歳の多感な時期、思春期と呼ばれる年齢。
楳図かずお(14歳)、庵野秀明(エヴァンゲリオン)でも、14歳〜15歳がテーマ。そう、世界を救うのは14歳〜15歳なのです。
また14歳〜15歳は、そのときに聴いていた音楽、マンガ、ドラマ、作品、美術、アート、映画、なんでもそうなのですが、今後の一生を左右するようなそんな時期とも言われていたりするんだとか。
小説家 槙生の関わり方
だからこそ、槙生は「あなたの人生に干渉したくない」というようなことをとても意識していたんだと思いました。だがしかし、引き取った時点でそれは無理なわけで。これは姉との向き合い方に関わっているわけですよね。
落とし所
最終巻11巻では「衛星」というメタファーが登場しました。11巻冒頭から笠町と槙生の外食シーンが入ります。そこでもう答えのようなもの、人と人との距離感について、宇宙視点、惑星、天体、をモチーフとして、それぞれの人と人との関わり方を探っていました。
人は天体である
人を天体に例えるのは、西洋占星術(星占い)でもあることだなと思います。自分は自分の国の王様(あるいは女王様)である。これこそが「異国日記」ということなのかなと。
衛星でたとえる件があるので、「惑星日記」と言い換えてもいいのでしょうか。国視点から宇宙視点に拡張されていることになるわけですかね。
そもそも答えがないのが人生
作中では、登場人物の葛藤や課題、解決しなければならないことが随所に登場します。朝がフックとなり、問いを突きつけられ、答える大人たち。しかしその答えには、それぞれの大人自身が抱えている問題と向き合うことになる。
良い大人とは
テキトーに答えないところが、良い大人たちである証拠だと思う。たいていの大人たちは、見て見ぬふりをして、誤魔化したり、冗談にしたりして、子供扱いする。それはつまり、自分自身が答えられないことでもあり、それはまた、自分が自分と向き合ってこなかったため、答えを「持たざるもの」である証拠だと思った。
前置きの理由
ただ一方で、答えなんて人それぞれなわけであり、槙生がつねづね「これは私の主観なので…」と前置きを添えるのは、ボクもとってもよくわかる。これが世界の答えだ!と言わんばかりの、無知の思い込みは、都合のいい答えを植え付け、支配されかねないからである。
つまり、相手を尊重し、謙虚であるということだ。
朝のお父さんは衛星なのか
自分がなりたい自分であるために、他者や社会との一定の距離を保つこと。関わりすぎない。近づかない。軌道から逸れない。一定の距離で、関わっていくということ。
朝は父に「愛されていたのか」という疑問を抱えて生きていく。母には愛を感じていたのか。槙生からは愛を感じていたのか。祖母は。同級生は。
そういう意味では、なりたい自分であることを守り、相手を尊重し、一定の距離を保っているということが、愛なのだ、とも読み取れなくもない。
しかしながら、ボクは、「愛って存在しないのだろうか」とも思ってしまった。
母の日記
母の実里は、日記を書き残していた。これは、20歳になったら朝に渡すつもりだったということである。しかし、読み終わってから感じたのは「実里は、20歳になったら自分は自死を選ぶか、あるいは朝から離れる(離婚とか、事実婚だから離婚はないか)」ようなイメージが湧いてきた。生命保険の件から。
故人に対して「私を愛していたのか」という問いを持つ朝。しかしそれは、両親が事故で亡くなっても、あるいは一命を取り留めていても、そもそも交通事故などなく普通に生きていたとしても。
朝は両親が自分を本当に愛していたのかどうかを、確認する手段はあったのだろうか。
愛はどうやって確認するのか
みなさんは、愛をどうやって確認なさいますか?愛されていると感じるのは、それは相思相愛なのでしょうか。自分も相手も同じレベルで愛し愛されて生きているのか。
自分が愛されていることを本人に問いただしたとしても、どこまでいっても本当のことはわからないのではないでしょうか。悲しいですが、確認する方法は、ボクにはなさそうに思えます。
ボクが愛を確認する方法
愛をどうやって確認するのか。ボクは「日々の行動」から見透かされてしまうように思います。しかしながら、多くの人は、行動から愛を受け取ることはなさそうだなと思っています。むしろ、肌触りの良い言葉や、刹那の支配や主従関係、貢献、などから愛を感じることの方が多いような気がします。
しかしながら、ボクにそれほどの人生経験はなくて、ドラマやマンガからしか、他人の人生を観察することはできないなとも思ったわけで。
愛するということ
哲学者のエーリッヒ・フロムは、著書「愛するということ」で「愛は技術である」というようなことを言ったとか言わないとか。(あとで再読してみよう)
ググってみると次のような文章が出てきました。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/30_ai/index.html
2月14日はバレンタインデー。愛を告白したい、確かめたいという人も多いでしょう。そこで「100分de名著」2月シリーズは、フロムの「愛するということ」を取りあげます。
「愛するということ」はノウハウ本ではありません。愛の本質を分析した思想書です。1956年に出版されて以来、世界的なベストセラーとして読みつがれてきました。
著者のエーリッヒ・フロムは、1900年、ドイツでユダヤ人として生まれました。フロイトの流れをくむ精神分析家であると同時に、ファシズムを非難し、人間性の回復を説いた社会思想家として知られています。
この書でフロムは人間とは死を知っている存在だとしました。そしていつか死ななければならないという自意識が、孤独への恐怖を生んでいると考えました。この孤独の恐怖を解消するために人は他者との一体化をめざす。それが愛の本質だとフロムは言います。
番組では、愛を通して人間の本性を学びます。そして人はどのように孤独と向き合うべきか、よりよい人生を送るためのヒントを探っていきます。
姉の遺児である高校生の朝は、槇生からの答えに「意味のわからないむずかしい言葉」を渡されます。高校生には少し難しいような言葉。朝はそんな言葉に出会うのが初めてのようでした。しかし、少しずつ言葉を知り、言葉の意味を知り、自分の感情や感性の分解能が向上していきます。
愛してるでいいじゃん
朝は最終巻で槇生に言います。
「・・・なんで一言ただ
あたしをあいしてるって
言えないんだよ・・・・・・・・・」
槇生は答えます。
「・・・・・・それでは
言葉が足りない」
「足りない」
「愛してる」という言葉は、耳障りが良いが、大きすぎる言葉だと、ボクも思う。如何様にも解釈できる言葉であり、極端に言えば「X」でも「Y」でも「Z」のような変数のような言葉だと思う。
いろいろな愛
愛には色々ある。それで足りる時もあれば、足りない時もある。その1つの心構えとして、「衛星」というメタファーが登場した。これは答えではなく、心構えであり、通過点なのかもしれない。
さいごに
朝の人生は続く。もちろん、槇生だってそうだし、登場人物みんがなそうだ。交通事故で亡くなった両親もまた、それぞれの人生の中で生き続けるだろう。なぜなら、生きている人たちは人生経験を経て、故人に対しての解釈が変わったりするからだ。故人が固定されるかどうかは、生きている人たちの生き様によるのだと思う。
故人が死ぬか生きるかは、生きている人次第だ。
この作品を読んだボクたちもまた、死ぬまで生き続けていく。